浮世絵で見る品川・目黒

第2回 南品川鮫洲海岸

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:小山なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

名産品の話でノリノリ?

蔵三さん、ずいぶん久しぶりじゃないですか。「連載って宣言しながら一回でおしまいかよ」って読者の皆様からクレームが殺到してたんですよ。

うるさいなぁ。悪かったよ。こちとら持病の糖尿病が悪化するわ、前立腺が悪くなって入院するわ、五十肩で腕は上がらなくなるわって、病気のアパートじゃなくてデパート状態だったんだよ。

みんな運動不足とかお酒の飲み過ぎとか、甘いものの食べ過ぎとか、蔵三さんの不摂生のせいでしょ。

あ〜そうだそうだ。みんな自分のせいだよ。でもなぁ、酒も飲まず甘いものも食べずに人生に何の楽しみがあるんだ? 俺達はありがた〜い飽食の時代に生きてるんだよ。別に江戸時代に生きてるわけじゃないんだよ。

でも、そもそもこの連載って江戸時代の話でしょ。それに「和食」が世界文化遺産に登録されたのも、日本古来の食生活が認められたからじゃないですか。和食をキチンと食べていれば、生活習慣病にはならないんですよ。

医者みたいなこと言うなよ。まぁ、確かに米を主食として魚介類や海藻類、野菜なんかをバランスよく食べる日本食は理想的な健康食って言われているからね。昔は白米じゃなくて玄米食だったからビタミンB1も自然に補給できた。白米を食べるようになったのは江戸中期ぐらいからで、徳川綱吉なんか、若い頃から白米ばっかり食べてたからビタミン不足で脚気(かっけ)になったとか、江戸に出稼ぎに行った農民が「江戸患い(脚気)」になって帰ってきた、なんて話もあるんだ。

そういえば最近、マクロビオティックを実践しようってことで玄米を食べさせてくれるレストランも増えてるわね。

まぁ、当時の江戸で白米が流行ったということは、それだけ供給量が潤沢だったということさ。18世紀初頭には江戸の人口は100万人を超えていたというからね。大量の食料が必要だった。全国の米は大阪に集積されて江戸に送られ、練馬大根のような野菜は江戸の西部で盛んに作られた。そして魚介類は江戸湾という最高の漁場から供給されたというわけだ。

ははぁ、それが前回蔵三さんが言ってたテーマね。品川の海がいい漁場だったっていう話。

寿司屋なんかで使われる「江戸前」という言い方は狭義では江戸城の前、具体的には佃島周辺のことで、広義では品川沖から葛西沖あたりまでの漁場のこと。亨保年間、ここで採れた魚介を「江戸前」と言うようになった。今と違って当時は海洋汚染なんてなかったから、魚は取り放題だ。

江戸前の魚ってどんなの?



アナゴ、マコガレイ、スズキ、サバ、キス、コハダ、ハゼ、シャコ、ノリ、アサリ、ミル貝、鳥貝といったところかな。代々将軍家に献上されたことで有名な佃の白魚は、摂州佃村(現大阪市淀川区)から徳川家康が漁師を呼んで漁業権を与えたことに由来する。

あっ、じゃあ、佃っていう地名はそこからきたの?


その通り。当時は上方の方が漁法が発達していたからね。加えて白魚は家康の好物だった。ところで、江戸の魚介といえば忘れちゃいけねぇ、もうひとつある。家康が江戸城周辺の整備と干拓を始めると、大勢の人足のスタミナを補給するために、鰻(うなぎ)を食わせる屋台が出始めた。当時の江戸は干拓の影響で泥湿地が多かったから鰻が沢山捕れたんだ。だから「江戸前」というのは鰻の代名詞でもある。

へぇ〜、最近は捕れなくなって高級なイメージがあるけど。うな丼って昔からあったんだ。

腹を割いてタレを塗った鰻料理が出始めるのは将軍吉宗の頃からで、それまではぶつ切りにして串焼きにしたものを売っていたんだ。その見た目が蒲の穂に似ているから蒲焼きというようになったわけ。

そうなんだ〜。じゃあ、品川の辺りでも鰻が捕れたっていうこと?


そうじゃない。品川沖は湿地じゃなくて遠浅の海だからね。品川の名産といえばこの浮世絵(左)、広重作の名所江戸百景『南品川鮫洲海岸』を見れば一目瞭然だ。海岸線にそってず〜っと何かが並んでるだろ。

あ、本当ね。柵みたいなものがたくさんあって舟も出てる。これって何だろ。

海苔の養殖ですよ。この絵を拡大するとこの写真(下=大田区立郷土博物館)になる。海苔そのものは古代から食べられていた記録が残っているけど、今私達が海苔と呼ぶもの、つまり紙状にして乾燥させた板海苔ができたのは江戸時代からで、大森で収穫された海苔を、和紙の技術を応用して浅草で作られたのが最初と言われているんだ。これがいわゆる「浅草海苔」だ。

大森が産地だったのかぁ。そう言えば大森の海苔って今でも有名だもんね。でも、江戸時代にはすでに養殖してたのね。すご〜い。

乾燥させれば保存が効くから流通範囲も広くなる。すると供給量が一気に増えるから養殖も発達する。もっとも、この時代にはまだキチンとしたノウハウがなかったから、収穫は安定しなかった。だから大量生産が可能になるのは第二次大戦後だ。ちなみに山本山のようにお茶を扱っていた業者が海苔を扱うようになったのは湿度管理の技術を応用できたからなんだ。

ちょっと気になるんだけど、その絵の題名になってる「鮫洲」って今の鮫洲と同じ場所?

同じだよ。埋め立てられてしまって殆ど面影はないけど、そもそも鮫洲という地名は鎌倉時代に漁師が水揚げした鮫の腹を割いたら観音木像が出てきて、それをご本尊に北条時頼が建立したのが今の海晏寺だという言い伝えがもとになっていて、この絵で描かれた沿岸の林がその海晏寺なんだ。

鮫の伝説がもとになったわけね。じゃあ、江戸時代には海晏寺の東側は海だったんだ。

東海道は海沿いの道だったからね。今の第一京浜が海岸線の際と考えれば、だいたい正しい。但し、海晏寺の話はあくまで伝承であって裏付ける資料はないんだ。砂水とか左水と書いて「さみつ」と呼んでいたのが「さめづ」に変化したという説もある。まぁ、鮫の話の方が面白いんだけどね。
<次回へ続く>

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